検索
  • Ash

ドビュッシーとサティ

TPAMのアフタートークで、宮城聰さんがくれた言葉を思い返す。

「ドビュッシーは、サティに『君、いつまでもこんな風に感覚的に作品を作っているのはいかがなものかと思うよ』と忠告していた」というのだ。

クロード・アシル・ドビュッシーは1862年生まれ。エリック・アルフレッド・レスリ・サティは1866年生まれ。二人はプライベートでも良く会い、共に食事を食べ、語り合う仲だったという。

「月の光」「2つのアラベスク」など有名ないくつかの曲を思い出しても「印象派」という言葉にぴったりのドビュッシーだが、そのドビュッシーも名声を得て、ある程度の足場を築くと、ファンタジックに感性のみで作品を作るのではなく、理論に裏付けされた音楽を後の世に残さなければならぬ、と考えに考えていたのだろう。一方のサティはというとまだカフェで自由に演奏をしている(つまり売れていない)。ドビュッシーはそれがある意味羨ましくもあり、不安でもあったのかもしれない。

ドビュッシーはそんなサティを音楽界に引き上げることはなく、結局サティの名声はドビュッシーを否定したラヴェルによって打ち立てられることになる。晩年、ドビュッシーとサティは全く会わなかったという。そこには二人の作曲家の思惑を超えて、さまざまな力関係が働いていたのだろうとは思うが、たった4歳年下の天才がすぐ近くにいるということの重圧。ひょっとするとサティをもっとも牽制していたのはドビュッシーその人だったのかもしれない。


自分の作品が感覚的であるということには自覚はある。それがいけないとは思っていなかったが、もしもロジックを味方につけることが出来たらなら、作品は私と観客だけのものではなく、もっと遠くまで届くのかもしれない。サティは大天才だったから、感覚だけで作っていたものがあまりに多くの人に影響を与え、たまたま存在が露見した。しかし天才に非ざる身は、成功のためにロジックを積み重ねていかなければならないよ、というのが師匠のメッセージであったのだろう。やってみたらたまたまうまく行った、という20代の頃のやりかたをしていたのでは、その先にはいけない。よく考えれば当たり前である。苦手な理論を徹底的に磨く。まだまだ修練が必要である。





88回の閲覧

© 2009 by KAWASAKI ALICE